Smiley face
写真・図版
1944年に開かれた最高戦争指導会議に臨席した昭和天皇(奥)=宮内庁提供

 80年前の6月8日、日本は第2次世界大戦で最後となる第4回の「今後採るべき戦争指導の大綱」(戦争指導大綱)を決め、「国体を護持し、皇土を保衛し、征戦目的の達成を期す」としました。防衛研究所の庄司潤一郎研究顧問は、この大綱について「初めて戦争の目的が具体化、共有された」と同時に、終戦に向けた動きが加速したと指摘します。

 ――戦争指導大綱はどう変化したのですか。

 それまでの戦争指導大綱は、敵とどのように戦うかに重点が置かれていました。第3回大綱(1944年8月)では、「現有戦力及び本年末ごろまでに戦力化し得る国力を徹底的に結集して敵を撃破し、もってその継戦企図を破摧(はさい)す」と記されていました。さらに、43年11月の大東亜共同宣言において、大東亜共栄圏の建設が戦争目的として再確認されました。

 ところが、戦局が悪化し、大戦末期につくられた第4回大綱は、過去3回とは大きく異なる内容になりました。

 まず、戦争目的が、「自存自衛」「大東亜共栄圏の建設」から、「国体護持(天皇制の維持)」「皇土保衛」に限定されました。「国体」が守られれば戦争目的は達成されたとの認識が陸海軍を含む閣内で共有されたのです。戦争終結研究の権威である米ランド研究所のポール・ケスケメティは、「敗者は、自己の中核的価値を傷つけられないと感じれば、戦いをやめる決断をする」と指摘しています。

 加えて、「大東亜共栄圏の建設」の理念が姿を消しました。理念を戦争目的とした場合、双方の妥協は困難になり、徹底的に最後まで戦われることになります。

 ただ、それを、交渉か軍事力か、いかなる手段によって達成するかが課題でした。海軍出身の鈴木貫太郎首相や外務省などは和平交渉、陸軍は米軍に打撃を与えたうえでの「一撃講和」を主張し、本土決戦も辞さない姿勢を維持していました。

【連載】読み解く 世界の安保危機

ウクライナにとどまらず、パレスチナ情勢や台湾、北朝鮮、サイバー空間、地球規模の気候変動と世界各地で安全保障が揺れています。現場で何が起き、私たちの生活にどう影響するのか。のべ350人以上の国内外の識者へのインタビューを連載でお届けします。

■軍に不信感を抱いた昭和天皇…

共有